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1 徳川家康を救った佃煮
本能寺の変が起こった時、信長の盟友である徳川家康は、わずかな家臣と堺にいた。
明智光秀にとっては信長を倒したいま、天下取りは目前。家康を討ち取るために追手を放つ。
その頃、家康は事件を知るや否や、即座に岡崎城へと戻ることに。しかしその道中には明智光秀の放った追手が迫り、緊迫した逃避行の中で家康は現在の大阪市西淀川区にあたる摂津国佃村に辿り着く。
しかし命からがら同地に辿り着いたものの、目前には川が流れ、一行には渡る術がない。その時、佃村の村民が船渡しを行い、村で作った佃煮を献上される。家康はその佃煮の日もちの良さと体力維持効果から、佃煮のありがたみを身をもって知ったと言われている。
その後、大坂夏の陣でも佃村の民は家康に仕え、家康はそれらに対する感謝の念から、30人ほどの佃村の民を江戸に呼び寄せ、優先的に漁を行う権利を与えたという。
彼らが住む土地はその後、故郷の名にちなんで「佃嶋」と呼ばれる。それが現在の東京都中央区佃である。
2 引き継がれる文化「丑の日の鰻」
江戸時代中期、その多岐に渡る才能で知られた異才がいる。
平賀源内。
その異才たる所以は、彼の持つ肩書に如実に示される。本草学者、蘭学者、医者、作家、発明家、画家などの複数の顔を持ち、多岐の分野に渡って活躍した。
さらに鎖国にあった当時において、外国文化に精通するなど革新的な人物としても知られている。
そんな彼を、同時代に生きた杉田玄白は次のように評している。
「この男(源内)、業は本草家にて、生まれ得て理にさとく敏才にしてよく人気に叶ひし生まれなりき。」
玄白は独創的でかつ理知に富んだ源内を、高く評価していたのだ。
その平賀源内、実は並々ならぬ鰻好きだったようだ。
彼は自著「里のをだまき評」にて、江戸前の鰻が如何に旨いかを書き連ねる程、鰻をこよなく愛していた。
ある夏の日、源内は鰻屋の店主から商売繁盛のアイデアを求められる。そこで彼は、店の看板に「本日は土用の丑、鰻食うべし」と謳った。夏のうだるような暑さの中、鰻を食べて精力をつけようという意味を込めて、土用の丑を鰻の日にしてしまおうというのだ。
そしてこの看板に書かれた「丑の日の鰻」が以後習慣となったと言われている。
ちなみに「丑の日の鰻」の由来となった人物を巡っては、もう一つの説がある。江戸中期に生きた文人・狂歌師である大田南畝を始めとする説である。
漢詩文・洒落本・狂詩・狂歌・随筆などの多数著作を残した南畝。実は狂詩集「寝惚先生文集」に源内が序文を寄せているなど、二人の交流は深かった。
江戸の異才と文豪、どちらかが提唱したとされる文化は今もなお続いている。
3 家紋にみる魚
家紋とは、家系あるいは個人がその信念や存在を誇示する為にあり、そして我々は、戦国武将と家臣達が纏った家紋に、血縁を超えた絆の結晶を見る。
水戸黄門でおなじみの徳川家「葵の紋」を始めとする家紋の成り立ちには、一家の地域性や歴史に深く起因するようだ。
ところで、魚を用いた紋章があるのをご存じだろうか。現在の名古屋に居を置いた関根家は「鯱」をモチーフに、常陸の鯉登家はその名の通り「鯉のぼり」をモチーフとして家紋としている。
また他にも、家紋では無いが「蟹」の旗印を使う武士が多かった事が知られている。これは、蟹が敵を大きな鋏で攻撃する様から、勇敢さを示すモチーフとして使われていたようだ。
4 源氏物語と鰯
天皇の皇子という高貴な身分として生まれながら、臣籍降下し源氏姓を名乗った光源氏。
三歳のときに亡くした母に似る女性藤壺への思いが初恋となり、その面影を求めて様々な女性との遍歴を重ねる生涯は、美しいまでに悲劇的である。
さて、その源氏物語の作者である紫式部とは、一体どんな人物であったのだろうか。
紫式部は越後守は藤原為時の娘で、漢文を得意としたと伝えられている。かの藤原氏の娘で才女、さらに貴族社会の恋物語を紡いだとくれば、華々しく貴族社会を生きた女性を連想させる。
そんな彼女だが、実は当時下魚とされていた鰯が好物だったそうだ。
当時の貴族社会では、鰯を食べるという行為は軽蔑の対象だった為、彼女は夫が留守の隙を狙って鰯を食べていたとする説がある。
ある日、彼女は夫が留守の隙に、いつもの如く鰯を調理し始めた。その時、運悪く夫が帰ってきてしまい、彼女は鰯を食べようとする姿を見られてしまう。
取って置いたスナック菓子を食べようとした時に、夫が帰ってきた場面を想像頂きたい。何か気まずい気持ちになり、言い訳めいた事を言ってしまうのではないだろうか。
才気溢れる紫式部は、鰯を食べる姿を見られて一歌。
「日の本に はやらせたまふ 石清水まいらぬ人は あらじとぞおもふ」
意:八幡宮にお参りに行かない人がいないように、鰯を食べない人もまたいないでしょう
何とも小粋な開き直り方だこと。
5 蛤から得た「集団戦法」
若かりし頃の武田信玄、家臣に命じて畳二畳程に山のように蛤の殻を積み上げさせた。その数4千程。
信玄は家臣を呼び出し、蛤の数を問う。家臣は山のような蛤の殻を見て、「1万個か2万個でしょうか」と答えた。家臣は隙間なく積み上げられたそれを見て、実際よりもはるかに数多く感じたのだった。
そのとき、後に戦国時代を代表する武将となる信玄は知見を得る。
一か所に軍勢を集中して配置する事で、数を実際より多く見せる事が出来る事に気づいたのだ。信玄が得意とした集団戦法は、この一件に由来すると伝えられている。
ところで、信玄の領地であった甲斐国(現在の山梨県)は内陸国。4千もの蛤を運ばせていたこともまた驚きである。
6 キャッチアンドリリースを広めた文豪
「日本三文オペラ」「輝ける闇」等の著書で名高い開高健。
食や酒に関するエッセイも多数出版されており、食通としても知られている。
無類の釣り好きで、「オーパ!」「フィッシュ・オン」等の釣りをテーマとした著書も多い。自身の旅を巡る体験に基づいたその生々しいまでのリアリティと、自然と人間への独自の価値観は、今もなお、読者の心をつかんでやまない。
現在では当たり前になった「キャッチアンドリリース」という概念を日本に広めたのは、アイザック・ウォルトン「釣魚大全」の普及者でもあった彼だと言われている。
7 三両役者の初鰹
幕末に活躍した歌舞伎役者の3代目中村歌右衛門。
大坂で産まれ、当時二代目嵐吉三郎と人気を二分した歌右衛門は、後に江戸に進出して広くその名を知らしめた。
そんな彼の人気役者ぶりがうかがい知れるエピソードがある。
江戸時代当時、初鰹は大変な人気があった。
季節の食べものは栄養価が高く長生きできるといわれ、初物好きの江戸市民はこぞって初鰹をありがたがった。さらに、江戸特有の見栄っ張りな性格が初物買いに拍車をかけ、闇ルートでの売買が行われるほどの珍重振りであった。
文化9年(1812)の初春、日本橋魚河岸に初鰹が17本上がったときのこと。将軍家が6本を購入し、料亭が3本購入した。残った8本は魚屋に卸され、その中の1本を中村歌右衛門が3両(現在のお金で30万円ほどにあたる)で買い、仲間うちの役者に振舞ったと伝えられている。
千両役者ならぬ、三両役者の誕生である。
8 鰤を呼ぶ男
晩秋から初冬に強風と共に雷鳴が響く北陸地方の荒天は、鰤の豊漁を告げる「鰤おこし」と呼ばれている。これは、ちょうど荒天が過ぎ去ると、鰤の漁獲時期になる事からこのように呼ばれるようになったそうだ。
実はこの鰤起し、「御満座荒れ」とも呼ばれている。
御満座とは、荒天となる晩秋から初冬に亡くなった浄土真宗の開祖親鸞を指す言葉であり、信仰心の厚い地元民が呼んだのが由来である。
嵐を呼ぶ男は、鰤を呼ぶ男でもあったという逸話である。
9 子規家のちらし鮨
司馬遼太郎著「坂の上の雲」に、正岡子規が友人である夏目漱石を現在の愛媛県松山にある実家に招く場面がある。
子規と漱石の出会いは、後の第一高等学校となる大学予備門在籍中にさかのぼる。
当時から創作活動を行っていた子規。漢詩や俳句で構成された『七草集』という作品を学友間に回覧していたところ、漱石が巻末に漢文で批評を書いたことがきっかけで二人の友情が始まった。
共に帝国大学の学生だったころ、子規は漱石を実家に招き、母お八重に「この夏目はなかなか勉強家で成績もよいぞな」と紹介する。子規の母は、この勤勉な息子の友人をもてなそうと、地元郷土料理である松山鮨を振る舞う。
松山鮨は、小魚を入れた酢飯に、エビ・タコ・サバ・アナゴといった瀬戸内海の幸をふんだんに使ったちらし鮨である。
子規は、この母の味をよほど好んだらしく、次のような句を残している。
ふるさとや 親すこやかに 鮓の味
われに法あり 君をもてなす もぶり鮓
われ愛す わが豫州 松山の鮓
伝統的日本文化を感じさせる美しい句である。
10 細雪と鯛
谷崎潤一郎の名作「細雪」は、太平洋戦争前の名家蒔岡家の四姉妹を中心とした日本を代表する長編小説である。
文章は叙情的にして論理性を失わず、日本語が持つ美しさの極致とも言われる。かの三島由紀夫やジャン=ポール・サルトルが感銘を受けたなど、国内外を問わずその評価は高い。
物語の中心となる四姉妹は、京都の花見や岐阜の蛍狩りといった日本の伝統的な風情を楽しみ、戦争の足音を聞きながらもそこに陰鬱さは感じられない。関西の上流社会の人間が当時味わった日本の美に、我々はただ感嘆する。
この「細雪」の作中で、一家がこぞって出向いた寿司屋がある。
次女の幸子が好む明石の鯛を食べさせようと、幸子の夫である貞之助が他の姉妹をともなって訪れる場面で登場する寿司屋である。
実はこの寿司屋、谷崎潤一郎の直筆のサインと共に今も残っている。神戸にある「又平」というお店で、鯛を用いた「筏寿し」がお勧めとの事だ。
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